唐津くんち 14番曳山 七宝丸
おはようございます☀
今朝は四時に起きて次女の陸上の大会で、家から1時間ほどの場所、佐賀サンライズパークに来てます。
家族みんなで来てるから、長女も息子もまだ車で寝てますw
本日は、唐津くんち 14体の曳山の最後の紹介です。
唐津くんち 14番曳山 江川町 七宝丸
江川町(えがわまち)
内町の西北端に位置する名護屋門口は巡見道や通称太閤道と後に呼ばれるようになる名護屋道の起点となる出口で、ここからは南に向かうと平戸道、北に向かうと呼子道となる。 門口からすぐは坊主町の町筋で北側を上がって西続きの横町筋が江川町である。
江川町は組屋敷の町とも呼ばれ、当初は下級武士の居住区域であり、江戸期当初の正保絵図には見られず、領内交通の発達にともない大久保時代以来、町屋が形成されたと考えられる。 現在でも藩政時代の町並みがしのばれる数少ない通りである。東西に続く通りは周辺に対して小高い地形であり、かつての砂丘ゆ造成した道となっていて、かつて裏坊主町と呼んだ縦町筋との交差点である東寄りの場所は「高見」と呼ばれたという。 造り酒屋『酒井屋』こと藤生家は江川町第一の豪商である。江川町は呼子街道沿いの町として明治中期に栄え、多くの商家が通りにあった。水野時代には松浦岩沖右衛門という相撲取りも住んでいたし、藩のお抱え絵師であった長谷川雪塘も廃藩後に住んだという。
文化年間の記録による町の規模は68軒、263人と大きい。 呼子街道沿いで唯一の曳山が14番曳山【七宝丸】である。 二台ある船形のひとつで、明治9年(1876)の制作である。
かつて『蛇宝丸』とも呼ばれた。江戸時代に流行した宝船に龍頭の絵柄があり、朝鮮通信使の船にもよく似た船の絵があったため、題材に選ぶ際に宝をもたらす船のイメージがあったものと思われる。
七宝丸(しちほうまる)
六番曳山【鳳凰丸】と同様に船形を本体とした曳山で船飾りは中国の伝説上の生き物である龍の頭部を制作している。
船形には火炎を装飾する笠の火炎が特徴の屋台である。この曳山本体には
1.宝珠、2.軍配、3.打出の小槌、4.隠れ蓑、5.宝袋、6.丁子、7.一対の巻物の七つの宝を持っている。
制作年 明治9年(1876)
制作者 細工人 宮崎和助 塗師 須賀仲三郎 大工棟梁 田中市次正信 曳山内屏風の絵師 武谷雪渓(唐津藩絵師)
かなり大きくて迫力もあり、繊細な造りの曳山ですね😊
【今日の卵焼き】 は学校休みでお弁当ないので、お休みです。
皆さん良い週末をお過ごしくださいね♪
ではまた👋